何万分の1の星になる

ジャニーズ話の雑記帳

ジャニヲタの「参戦服」文化 ―見てほしい!の連鎖―

大学の服飾美学と言う授業で、若者が生み出した文化とその創造性について述べる、というものが最終課題にありました。冒頭に要約しているものは主にアニメやヴィジュアル系バンドのコスプレにスポットを当てているので、同じような、でも違うフィールドで論じたいなあと思ったときに思い出したのがジャニヲタの参戦服でした。自分たちの趣味に組み込まれている学問性を探るというのは、くすぐったくて、頭が痛くなりそうで、でも面白いなあと思います。

(画像、脚注などは省略)

================

本レポートでは、成実弘至編『コスプレする社会 サブカルチャーの身体文化』(2009、せりか書房)から、成実弘至著「序 仮装するアイデンティティ」、田中東子著「第1章 コスプレという文化」、および小泉恭子、鈴木裕子著「第2章 コスプレという文化」を要約したうえで、ジャニヲタによるコスプレ文化とその創造性について述べる。

【要約】

成実弘至によれば、「日本人の身体はサブカルチャーが発信するユニークなスタイルから大きな影響を受けてきた。サブカルチャーは社会から逸脱者として軽視されてきたが、近年はこうした文化が一般の人々にも認知され広まりつつある。最近は“コスプレする”という言葉が“自分を素材とした作品として外見を作りこむこと”という意味を持つようにもなっている。この行為が多くの人々の関心を惹きつける背景には、現代において自己と社会の関係が変わりつつあることが挙がる。本来アウトサイダーのレッテルを貼られ差別されていた人々は、独自にコミュニティを作ってきたが、それらはステレオタイプ化されながらもメディアに取り上げられるようになり、彼ら・彼女らの社会的地位は向上しつつある。たとえば文化としての“サブカル”(マンガ、アニメ、ゲーム、音楽、映画など)も公認され、世界に誇る日本の文化という位置づけになった。また、自己肯定間の脆弱さに苛まれている若者たちは、強烈な人生の中にある純粋さから自分を肯定しようとしている。サブカルチャーはこういった若者たちにとって大きな共感とあこがれの象徴なのである。コスプレは架空の人物をモデルとし、他者を模倣することで自己表現を行うが、その他者が観念・あるいは異性であるために完全に同一化できないことは前提となっている。それは虚構のなかに自己を抹消することで仲間から承認を受ける一方、モデルとの差異のなかに自己を見出す動きなのだ。」

また田中東子によれば「1990年代前半まではコスプレをすることは主流ではなかったが、2000年以降コスプレという文化が表にでるようになり、それをするレイヤーの人口も増加した。コスプレに関する調査をしていく中で感じたのはメディアが描くレイヤーの不健全さと実際のギャップであった。そして、家族や労働の場でもなくポピュラー文化やサブカルチャーのコミュニティで活動する女性は年々増加している。学生生活を終えてもサブカルチャー文化圏から卒業せずにとどまる女性が増えているのだ。さて、そのレイヤーだが、潜在的な人口としては日本国内だけで約10万人いるといわれ、彼女たちのいるコスプレの現場は独特の風習であふれている。またレイヤー間には“レベル”と呼ばれる独自の審美眼が存在する。単純に雑誌モデルのような美しさをいうのではなく、模倣する対象のキャラクターに似ていれば似ているほどレベルが高いとされ称賛される。このようにコスプレの現場には素人がわからない知識や技術が集積されており、細部にまでわたる様々なこだわりがみられる。コスプレは自己顕示のための手段であり、頑張った分周囲の人に褒めてもらえる。ただ、自分ではないキャラクターに扮するこの顕示手段は、風変わりな方法である。自分自身の体を使いながらも、自分そのものを他者に印象付けるのではなく“キャラクター”という共通の記号を身にまとうことで自己を消してしまう。その意味でコスプレは匿名化の装置でもあり、自己を消しつつも目立つ格好ができるという両義性がある。そもそもこのコスプレ文化が1990年代後半に一気に広がった理由としては、画像データのデジタル化とウェブ上のネットワーク技術の広がりが指摘できる。レイヤーにとってネット上に挙げられている写真や運営されているサイトはアーカイブ化された知識の集積であり、それらを発信する側は自分自身の世界観を提示している。レイヤーにとっては衣装自体が自ら作り上げた作品であって、視線やポーズなどに徹底的にこだわって記録に残していく写真は、作品の世界観を創出し提示する行為なのだ。」

さらに小泉恭子、鈴木裕子は、男女の身体装飾の差について次のように述べる。「男性ファンからすると、女性ファンは視覚的要素しか見ていない、見ること、見られることに集中するあまりに聞く行為に対して集中力が散漫になっているという。男性ファンはあくまでも女性のような“完全コピー”ではなく“模倣”にとどまり、聞く行為を重視しているのだと彼らは主張する。日本のヴィジュアル系の場合、コスプレファンとなると女性は大多数を占める。女性ファンは男性メンバーの衣装を身にまとうことで“見る主体”“見る客体”というそれぞれの性別に与えられてきた特権を味わえることとなった。バンドメンバーという異性の衣装をまとう「異性装」をするヴィジュアル系のコスプレファン、アニメやゲームの同棲キャラクターに扮するコスプレイヤーはともに装いに性差があるにしても、女性がコスプレをするという行為自体が男性支配の権力関係に異議申し立てをする戦法であることに変わりはないのだ。」

【テーマ(1)】

ここからは若い女性(おもに10代・20代)のジャニヲタの、コンサート時における服飾文化について述べる。まずジャニヲタ(オタ)とは、「ジャニーズヲタク(オタク)」を省略したもので、ジャニーズ事務所所属のタレントを応援し、コンサートに参加するもののことを指す。ジャニーズが含まれるJ-POP界隈は、一般人から見て侮蔑の目を向けられることは少ないのだが、なぜかアイドルというジャンルが明確になるとその状況は一変する。アイドル楽曲というだけで聞かないというリスナーが存在するのである。これには歌い手が嫌いだという以外におもな理由が2つある。一つには純粋な楽曲勝負ではないということだ。特典付きCDを発売するためにCDランキングの一位を毎週アイドルが埋めることになり、これがより良い音楽を枯渇させると考えているのだ。もうひとつはファンの逸脱した行動が目につき、それゆえに聞く気になれないというものである。アイドルファンにとってコンサートは祭りであり、それは傍から見れば異様な光景に映る事もある。また一部のファンが特別番組の看板の前で土下座するといった非常識な行動をとった例もある。このように若い女性のジャニヲタの「奇行」に関しては枚挙に暇がない。

そういった点で、ジャニーズを好きであるということは、いくらそのコミュニティの人数が少なくないとはいえ、それだけでJ-POP界隈の中ではアウトサイダーのレッテルを貼られる。加えてジャニヲタであっても、当然ながら奇行をしでかすファンを良く思っていない層もいる。ジャニーズのファンは女性が圧倒的多数を占めるが、その中でも応援の仕方や、タレントの何を重視しているかは人によって違うのである。ただし、後述するようなジャニーズのコスプレファンの場合は、・・・のように「見ること」「見られること」といった視覚的要素を重視しているのは確かなのだろう。

 さて、ここでジャニヲタが作ってきたコンサートの「参戦服」文化とその創造性について述べる。ジャニーズのコンサート(の会場)に行くことを「参戦」とよぶ。(コンサート自体には行くことができずとも、グッズだけ購入する場合も「グッズ参戦」という言葉が使われることがある。)そのためコンサートに行くとき=大好きなタレントに見てもらえる可能性があるかもしれない、最も気合の入った勝負服を「参戦服」と呼ぶのだ。さてこの参戦服、いくつかパターンがある。1つ目が「普通におしゃれしていく」パターンだ。自分の持っている服の中でももっとも可愛らしいものを着ていく場合である。2つ目は1つ目に似ているのだが、注目すべきは身につけている色である。ジャニーズのグループは、それよってはメンバーカラーが決まっており、その色を身につけることで自分が誰のファンであるかを外部に示すことができる仕組みが出来上がっていた(例をあげると大野智は青、櫻井翔は赤…というように)。実際に現場で見て見るとこの「メンバーカラーを身につける」パターンが参戦服の大半を占める。その色の服を選んだり、雑貨屋でその色の髪飾りなどを探して身につけたりするだけで、比較的容易かつ安価に自分の「担当」(最も好きなメンバー)を外部にアピールできるためだ。そして3つ目がコスプレをして参戦するパターンである。このコスプレには、市販の制服やつなぎをメンバーカラー基調に仕立てて友人とおそろいで参戦する者もいれば、ジャニーズタレントがコンサートで着ていた衣装を作って身に着ける者もいる。これら3つのうち2つ目からは、先に要約したような「見られたい、見てほしい」という意思が感じられる。ただ、3つ目のコスプレの場合は「見てほしい対象」がジャニーズタレントだけではないというのもまた事実である。

ここで注目したいのは、コスプレ参戦がまた別の文化を生み出したということだ。彼女たちの中にはコンサートを見に行くのではなく、Twitterで交流を深めているフォロワーに合う目的でコスプレだけをして会場に向かうものもいる。(顔まねメイクをしてタレントそっくりの顔になった状態でフォロワーに会う者も近い心理状態だと考えられる。)この時、ただ会って話をするだけではなくて、写真を撮るとか、最近では流行の壁ドンや床ドンをしてもらうフォロワーもいる。ここでは、それを公衆の面前で行うことの是非は置いておくとして、この行為が双方の欲求を満たしていることに注目したい。この交流によってレイヤーは見られたい、(自分のコスプレの緻密さを)評価されたいという気持ちを満たすことができ、フォロワーは普通ならありえない「担当と写真を撮る」「担当と接近している」錯覚に陥ることができるのだ。

ジャニヲタたちは常に音楽業界の中で風当たりの強さを感じてきた。決してマイノリティではなく、探せば仲間はいるはずなのに、である。しかしほとんどの男性はジャニヲタというワードを聞いて苦い顔をする。つまり「ジャニヲタ」という単語・存在自体が市民権を得ているとは言いがたく、そのような中で彼女たちが選んだのは同志だけが集まるコンサートと言う場でより濃く、より強い文化を形成することに他ならなかった。さらに彼女たちは、どんなに頑張って着飾っても、美しくなろうとも、タレントに見てもらえないというジレンマも抱えていた。タレントの一般的な視力をもって認識できるのは、5万人収容の会場ではほんの一握りのファンであり、どんなに自分がお金を彼らにかけようが、好きでいようが、彼らには見向きもされない。もちろん彼女たちも十分分かっているのだが、見てほしいという気持ちを抑えることができなかった。そこでジャニヲタは、タレントそっくりに着飾り、彼らのように振舞うレイヤーを同一視し、自分の欲求を満たす逃げ道としたのではないか。公共の場における過剰な振る舞いも、その逃げ道の現われだとすれば納得がいく。タレントに見られたい、自己を消してでも自分を見てほしい。この自己顕示欲の連鎖が、ジャニヲタの参戦服文化を生み出し、発展させているのである。